みんなが救われない限り、自分も救われない
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救われるとは
私はやっている宗教も何もないですし、
「救われる」という言葉の意味はよくわかっていないです。
でもある人のブログをたまたま読み、書いてみたくなりました。
彼女のブログでは、例えばアラフォー、独身だから救われたいと
あります。
その為には、何でもやると禅寺に行って瞑想したり
ありとあらゆるスピリチュアルを学んだりしていました。
でも救われない。
これがスピリチュアル乞食なんですねと書いていました。
おそらく何百万も使ったのかもしれませんね。
そして結論は、救われなくていい!でした。
でもこの方の言う「救われたい」はアラフォー、
独身からの不安や恐怖から救われたいという内容です。
救われたいを少し取り違えていて、救われなくて
いいやは勿体ない気がします。
この人はその後結婚でき、救われたと書いているので
それはそれで良かったですが。
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聖書を熟知している人の引用
私は「救われる」の意味はもっと違うところにもあるのではないかと思っています。
「救われる」という言葉は聖書で聞く言葉だと思い、聖書を調べてみました。
聖書.comというのがあり、聖書を詳しく解説しています。
そのまま引用しますと
(1) 救われたいとは、この質問をされること自体が、すでに救いを受ける準備ができていると考えられます。
自己充足している人(自分は善人だと思い込んでいる人)からは、この質問は出て来ません。
自分は今のままではいけない、救われる必要がある。
無意識的でもいいのですが、そのように感じていることが、救いを受ける背景、あるいは文脈になります。
そういう人が聖書を読み始めると、より鮮明に自分の欠点や罪を認識するようになります。
これは辛い経験ですが、救いに至るプロセスとしては素晴らしいことです。
聖書を読んでみたくなりました。
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自分の行いによって救いを得ようとするのは愚か
聖書.comからの引用は続きます。
「救われる」とは、「神の怒りから救われる」ということです。
聖書を読むと、神の義と聖の規準が、いかに高いものであるかが分かります。
それが分かると、自分の行いによって救いを得ようとすることが、
いかに愚かなことであるかが分かります。
聖書伝道のお話し会では「この中で泳げる方は手を上げてください」とお聞きします。
すると、勢いよく手を上げる方が何人もおられます。
「どれくらい泳げますか」と聞くと、たいていは100か200メートルです。
まれに何キロでも泳げるという猛者もいます。
また、10メートルくらいで手を上げる前向きな方もおられます。
そこで再度お話しします。
「泳げますかと聞いたのは、
日本の太平洋岸からアメリカの西海岸まで泳げますかという意味でした。
そういう方は手を上げてください」。すると、爆笑が起こります。
神の基準は、太平洋を横断するかのような壮大なものです。
それに対して、私たちの規準は岸辺で水と戯れるようなものです。
神と私たちの間に、超えることのできない淵が横たわっています。
これが分かると、一方的に赦していただかないと、
自力ではどうすることもできないことが分かります。
一方的な赦しを「恵み」と言います。
ゴスペルソングの「アメイジング・グレイス」は、
そういう神の「恵み」を体験した人の感謝の歌です。
引用はここまで。
アメイジング・グレイスは大好きな歌です。
恵みを体験した人の感謝の詩だったのですね。
作曲者は不明ですが、作詞者は奴隷貿易で商売して儲けた人が改心して
牧師として生きながら作った詩だそうです。
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みんなが救われ、自分も救われる世界
悪人はさておいて、善人と呼ばれる人、思い込んでいる人が、
他人が困っている時どれだけ手を差し伸べられてきたのか、、、
他人に対しての思いやりをどれだけ持てるのか。。
そういった全ての人を救うなんては、私も無理です。
でも誰かの犠牲の上に私達の暮らしは成り立っているとも言えます。
だからそうやって生かされていることに感謝しないとならないと思います。
生き物だって殺したものを食べさせて頂いています。
この世に罪のない人などいないのですよね。
みんな、繋がっているのです。
ですから一人でも多くの人が救われない限り、
みんなが救われない限り、
自分も真の意味では救われていないのです。
某政治家の様に、自分だけ安心した場所にいても、
それは救われたことにならないのです。
誰かのためにできることをして、できることでいいと思うのです。
もうちょっと思いやりをもって暮らしていくことでしか真の光はさしてこない。
救いはこない。
神の恵みを受け取れないのだと思うのです。
みんなが救われ、自分も救われる世界がくることを祈ります。
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