声をあげれば共感者はいる

女性の心の健康

声を上げるということ

人間社会の中で生きるわたし達は、人との関りの中で生きていくことになります。

主張が多くなったりもします。

でもそれが前向きな変化や改善を支援する意図を持ったものなら
声をあげて良いのです。

また人権を侵されているなら、
すぐさま助けを求めて声をあげるべきです。

誰への遠慮も要らないですし、恥ずかしいことでもないのです。

このほか、懸念の提起、質問をすること、知識を共有すること、
多様性の受け入れを奨励すること、新しいやり方を提案することも
みんな声をあげることになり、大事なことなのです。

声をあげることは人間の基本的な権利なんです。

そして自分の話を聞をいてもらおうとしたことを否定されたり
沈黙させられたり、操作され,制御される等、

声をあげることを制限することは,「不平等の精神と権力の乱用」
を確立してしまうということになるのです。
ダメなことなのです。

誰かの都合で置き換えられてきたのでは?

ちょっと難しく書きましたが、日本人は声をあげるのが苦手な方が多いです。

周りを思いすぎてしまって言えなかったり、

否定されるのが怖かったりして勇気が出なかったり、、

これは中国や韓国などの儒教の影響も
あるのではないかと言われたりします。

儒教では上下の秩序を重んじています。

そのせいか、上の者には媚び、下の者には傲慢に接するという
差別意識が生まれやすくなってしまうのです。

それが高じて儒教には男尊女卑がないのに、
男尊女卑というものがないのにですよ。。。

いつの間にか、男尊女卑が
韓国で生まれてきたりしているのはなぜなんでしょうか。

日本の神道にも男尊女卑はないはずなのに、
神道で血は汚れを意味ずることから、
土俵に女性は上がれなかったり、いろいろあります。

儒教も神道も素晴らしいものがあるのに

どこかで誰かの都合のいいように置き換えられてきてしまったのかなあ
などと想像してしまいます。

だからこそ、おかしいなと思ったことは、
特に自分の身に起きたことは

声をあげていかねばならないですね。

誰でもが、誰かに人権を侵されたりする権利もなく、筋合いもないのですから。

伝え方が大事なのかもしれません

声をあげるのにも、つい感情的になると、相手も感情的になってしまう
場合も多いです。

声のあげかたにも注意と工夫が必要です。

人権を侵されるレベルなら、すぐに公的な警察や市役所などに
駆け込むべきです。

ですが、そうでないなら、冷静に判断したり、
時には誰かに相談したほうがいいですね。

ただやみくもに声をあげても

受けとめる相手がいればいいのですが
受けとめてくれないと言う場合もあるからです。

例えばこういうのも声をあげる例ですよね。

「ここにゴミを捨てないでください」という看板。

空き地だったり、公衆トイレだったり、そういうところのゴミの投棄は
止まりません。

でも看板のような、一言があっても人は平気で捨てていきます。

だけどあるとき

「ここのゴミを拾っていくとあなたにきっといいことが起こります」と
書いたら、それだけでゴミ投棄が減ったということがありました。

ゴミを拾っていくという言葉が良かったようです。

ちなみにこれ、わたしのアイデアです(^^)
知人に相談されて考えました。

元々は共感強力しあえる民族

おそらくこの場合は、

いいことが起きるというよりも、

今捨てようとしていたのに、、、拾っていけとある。。

どうしようと脳が混乱して

捨てないというようなことが起きたのではないかと
推察します。

人間はあまのじゃくですよね。

家を片付けてというと、片付けないけれど

あーいいよ、もっと散らかしておいてというと

いいのかなあと片付けてみたり。。

人間はほんと、アホな生き物でもあります。

でもこの世で修行させられているのだから
少しでも前進し、変化し、良いことをしていけたら良いほうに変われますね。

ですから自分を守るため、自分の幸せのために
行動し、声をあげていくことも大事なんです。

日本人の精神文化は戦前「東洋の神秘」と言われていました。

素晴らしいものを持っていたのです。

今使われている、「わたし」という言葉も「私」にしたのはGHQです。

戦前は「和多志」

『私』という漢字は、稲を刈り取って自分のものにするという意味があります。
つまり自分さえ良ければそれでいいという個人主義的な価値観が埋め込まれています。

(私利、私欲、私腹等)

それまで使われていた『和多志(わたし)』という漢字は、
多くの志を和(やわ)すという意味があります。

この言葉は、自分のことを「私」と呼ぶのではなく「和多志」と呼ぶことで、

自分の志や目標に向かって努力する人々と共感し、
協力し合うという気持ちを表現するものです。

『私』とは真逆の意味ですね。

GHQは、漢字を変えることからも、日本人を分離させて個人主義を強める意図があったと言われています。

氣から気の変更もそうですし、體から体もです。

ということは元々日本人は、男尊女卑はあるところにはあるにせよ、
いろいろな人がいるにせよ

共感、協力し合える民族ではあるのです。
GHQはそのことも恐れたのですね。

共感協力し合える民族だからこそ、
どこかで自分のことを分かってくれる人が必ずいます。

声を上げたい時は、安全確認だけはしてから、勇気を振り絞って行動していきましょう。

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